ハイキューが8年半に渡る連載を終え、完結した。
久々に筆を取って、この作品への想いを綴らせて頂きたい。ほぼほぼ自分語りが掲載されているだけではある。
始めに記しておくが、私は小学2年生の時からバレーボールという競技に携わっている。今は、コーチというポジションで、子どもたちにバレーボールを教えている。
私が、「ハイキュー」という作品と出逢ったのは2013年7月9日。小学生の時にバレーボールのスポーツ少年団に入団していた私は、当然のように中学校でもバレーボール部を選んだ。
もちろんバレーボールが「排球」と称されていることを知っていたし、この作品のタイトルもそこから来ているのであろうと思った。
ただ昔はあまりジャンプといった週刊誌を読む習慣もなく、アニメだけ見るのが好きだった。立ち読みや購読するということもあまり無かった。
ジャンプに掲載されていて、アニメ化している作品くらいは知っている、その程度だった。
あの時のことを、今もよく覚えている。
寝室に録り溜めていた番組を、オフの日に纏めて見るのが日課だった私はいつものようにベッドへダイブし、早撃ちのガンマンのようにリモコンを構え、電源を入れた。
「サキよみ ジャンBANG!」という、ジャンプ作品の情報を先取りで知ることが出来る番組を見ていた時だった。VOMICという、漫画の絵にパンなどの画面効果を加え、声優が声をあてた動画が放映され、ハイキューが取り上げられたのだ。
バレーボール(排球)
コート中央のネットを挟んで
2チームでボールを打ち合う
ボールを落としてはいけない
持ってもいけない
3度のボレーで攻撃へと"繋ぐ"球技である
「繋ぐ」
その言葉に大きく心を揺さぶられた。何故なら、私はバレーボールという競技を漢字1文字で表すなら「繋」だと思っていたからだ。
そして始まる、日向翔陽の語り。目の前に立ち塞がる高い壁であるブロックの存在、その生々しくも、現実とほぼ寸分違わない描写と、大きな体育館に足を踏み入れた時の高揚感や緊張感をも吹き飛ばす「エアーサロンパスの匂い」と口にした日向の姿に、一瞬にして惹き込まれた。
それは、現実で自分が体感している現象そのものが、あの作品の世界には溢れていたからかもしれない。気付いたら…本屋で漫画を手に取る私がいた。
現役時代、それはもう何度も「なんでこんな練習してんだよ…」「もういいよ…」と、高い壁にぶち当たることは何度もあった。
スパイクの調子が悪く、中々決めることの出来ない私を冷ややかな視線で見るチームメイトもいた。「拾ってんだから決めろよ!」と言葉にする仲間もいた。その言葉に反論出来ない自分も悔しかった。全くもってその通りであったし、そのチームメイトの期待に応えることの出来ない自分も歯がゆかった。
それが中学生の時の私だった。
人生の転機、と言うと、私は中学生の頃を挙げると思うが、バレーボール人生においてもそれは同じだった。
ハイキューという作品の中で、自分にとってはおまじないのように思えた言葉と出逢ったのだ。
「苦しい。
もう止まってしまいたい。
そう思った瞬間からの
一歩。 」
何度、この言葉に救われただろうか。
早朝、菅原が見守る中15分連続レシーブの練習をする日向と影山。田中が遅れてやってきた状況で、中々諦めない日向にカッとなって、つい思いっきりボールを日向がほぼ取れない所まで打ってしまう影山。
それでも、めげずにボールを追う日向。その様子を見ながら影山が日向を観察しながら言葉にしたセリフ。
この後、日向は見事にボールを拾い、初めて影山が日向にトスを上げ、それを打つ日向。その時の満足気に笑う日向の顔が今でも脳裏に刻まれている。
この頃、日向の技術はまだ未熟で、経験もほとんどなかった。それでも…それでも、貪欲に成長しようとしている彼の姿を見るのが大好きになった。
人生、なにかに打ち込もうとしてもほとんどの場合、壁にぶち当たるだろう。困難に直面したとき、その目標を諦めたり、先延ばししたり、意識から外したくなるものです。これ以上前へ進むことのできない絶望を感じることもあります。
しかし、ここで忘れてはいけないことがある。それは、人間と言うものは限界に達する遥か前から苦痛を感じ始めることだ。一歩を踏み出すのが苦しいだけで、踏み出せないわけではないのだ。
私は、苦しくなっても日向のようにそれでも一歩踏み出したい。多分、そのことを自分に言い聞かせるために、このシーンは刻まれているのだと思う。
真夏の暑い午前中、ラントレから始まる部活動。ロードワークという炎天下の下を走り続けるトレーニングから始まり、校舎までの坂道ダッシュ、正直苦しいことの方がたくさんあった。
もう早く走れない、息出来ない、無理、ペース緩めよう…そう思った時に、日向の姿が浮かぶ。
「いや、まだ。ここから。1歩。踏み出せる」
そう自分に言い聞かせて、おまじないのように「1歩。1歩。」と念じながら呼吸をして、1歩足を前へと踏み出していたことを思い出した。
その後に続くフィジカルトレーニング。
2重跳び100回から始まり、倒立、ブリッジ、片足上げ手押し車、縦18m横9mのコートを利用したフットワーク。そして、0.5という謎めいた魔の名前が付いたリレー。
それだけで、午前中の練習半分は持っていかれた記憶はある。膝は笑っていたし、練習着の色は変色するし、2Lペットボトルが1度の午前練で消えることもあった。
それから続くボールを使った練習も、パスはアンダー、オーバー共に300回、対人パスはそれぞれのメンバーと3分交代で行う(続くメンバーとやる時は、ほぼ落ちないし、負けたくないので無限にやってます)
四角パスに、部活内でも地獄と称されるツーメン。2人であちこちに投げられるボールを繋いで、触って、それを10回繰り返す練習。運悪く、と言ってはいけないが、1本目をどこかに飛ばしてしまうメンバーとぶち当たると終わらない。
正直、これよりも私が辛かったのは1人で連続10本スパイク決めるまで終わらない練習の方が辛かった。何故か待っている間、跳び箱の1段を横跳びで跨ぐフットワークも追加された。足が笑っていたし、正直顔も笑っていた。
脳裏にはいつだって、あの時の日向の笑った顔が浮かぶのだ。あぁ、スパイクが打てるってこんなにも気持ちいいことなのだと、実感出来る。
今思うと、こいつドMなんじゃないかって思う。いや、今も正直ドMだとは思う。メニューをこなしていると、そのメニューを作った人、つまり顧問への私怨が生まれる。「この野郎、まじで見てろよ?」という気持ちになる。当時、顧問を心底恨んだ。
必死になって、繋いできたボール、繋いできた練習が繋がる瞬間、というのはごく僅かなのかもしれない。私にとっては、小さなことではあったが、市大会優勝、というのが全ての練習が繋がったと実感出来た瞬間であった。
あぁ、私、バレーボールやって良かった、と心の底から思えたし、試合終了のホイッスルが吹かれた瞬間、多分…朧気だけどチームメイトと抱き合って泣いた記憶はある。
高校ではバレーボール部に入るか、いやもういいだろう、と思っていた。しかし、1番最後の試合を自分のミスで終わらせてしまったことがチームメイトにも申し訳無かったし、自分が死ぬほど悔しかった。
だから、高校でもバレーボール部に入部した。
先輩と自分たちの代の意見が合わず、衝突ばかりしていたと思う。自分たちの代では、新人戦直後に顧問とぶつかり、顧問はバレーボール部から退いた。
指導出来る人がいない中、春休み、自分たちだけでメニューを考え、練習を積み重ねていった。世間から見れば、たかが県立が、対して強くもないのに、という言葉をかけるだろう。実際、自分も属していた中で感じることは多くあった。実力不足もたくさんあった。
それでも、その時一緒にやってきた7人の仲間との青春は、今でも覚えている。大会前の練習、「練習着統一しようぜ?」という話から、何故かこんなテンションになってしまったのもいい思い出。
なんだかんだあったバレーボール人生。まさか、今度は教える立場になるとは思いもみなかったが、実際教えるとなると見る視点が変わってくる。
これまで気付いて来ることのなかったことに気付くようになる。現役時代、これが出来ていたらなぁ…ということもたくさんあった。
バレーボールという繋ぐ競技は、過去の私を、今の私へと繋いでいる。その競技で得た上下関係、先輩後輩としての立ち振る舞い、マナー、スポーツマンシップ…全部が未来の私へと繋がっていくだろう。
「繋ぐ」競技と出逢えたこと、バレーボールという競技と出逢えたこと、ハイキューという作品に出逢えたことを、私は心より誇りに思う。
ずっと私の心を支え続けてくれて、ありがとうございました。今度は、私がハイキューから貰ったその想いのバトンを、繋げてみせます。